神の御名について

福音教会では神の御名を呼んで祈り、礼拝します。

神の御名s

初期のクリスチャンは「御名を呼び求める人」と呼ばれていました。


名は体を表わす


「名は体を表わす」とは、名前の意味とその人の性格がピッタリあっている時に使われる言葉です。けれども、神さまの場合は、名前と性格がピッタリというよりも、「御名」は「神さまご自身(実体、本質)」をあらわすのです。聖書ではしばしば、「神」という替わりの言葉として「御名」という言葉が使われます。「主の祈り」の中にも「御名が崇められますように」とありますが、崇められるのは神様だけなのですから、「御名」というときには「神様」を指すのです。


聖書の中で継承されてきた


私たちはその対象を把握し、理解したときその対象の「名」で限定します。たとえば、「そこの赤いもの」と呼んでいる間は、それを知っているとは言えませんが、それが何かを知ったとき「リンゴ」という名で呼ぶようになるのです。神様は、人間の理解をはるかに超え、限定されることのないお方ですから、本来、わたしたちは、神を名で呼ぶことは不可能です。しかし、神様は愛ゆえに、人類にご自分を知らせ、ご自分を与えたいと願われました。そこで、神様は私たちにご自分との出会いの方法として、「御名」を知らせて下さいました。この「御名を呼ぶ」という信仰の行為は、聖書の中で脈々と受け継がれてきました。

・ アダムの孫エノシュ

主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。(創世記4:26)

神に背いて罪を宿し、エデンの園を追放されたアダムが、神との交わりの方法として、孫であるエノシュに伝えたのが「主の御名を呼ぶ」という方法でした。人類の歴史のごく初期から、御名を呼び求めていたことが分かります。

・ アブラハム(アブラム)

アブラムは、…そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創世記12:8)

イスラエル民族の太祖であるアブラム(後のアブラハム)も主の御名を呼んで礼拝しました。神はアブラハムに「わたしは全能の神である」とご自分の名を知らせました。

・ モーセ

彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト3:13,14)

映画『十誡』でもおなじみの、モーセは、神と出会ったときその御名を訊ねました。神様は「わたしはある」という名を知らせました。後にイエス・キリストはご自分の名として「わたしはある」と名乗っておられます。

・ 詩編の中で

主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。(詩編30:5)

『詩編』は聖書の民イスラエル民族が何千年にもわたって歌い継いできた詩歌が収められた書です。その中には繰り返して、主の御名を呼ぶこと、主の御名に感謝を捧げることが歌われています。

・ 初期の教会で

教会が誕生し、最初に語られた説教の中で、使徒ペトロは聖書の言葉を引用して語りました。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2:21)初期の教会の人々は周囲の人々から「御名を呼び求める人」(使徒言行録9:14)と呼ばれていました。彼らは、イエスの名(神としての御名)によって語り、人々に救いを与え、病気を癒やしていきました。



神の御名とは


神の御名とは何でしょうか?神様は無限のお方ですから、一つの名だけで表現できないお方です。聖書の中には数多くの神の御名が記されています。わたしたちの教会では、次の12の御名を、神の御名として尊んでいます。(いずれも文語で)

我は全能の神なり(創世記17:1)
我は有りて在る者なり(出エジプト3:14)
我はシャロンの野花、谷のゆりなり(雅歌2:1)
我は主なり(イザヤ43:13)
我は初めなり終わりなり(イザヤ44:6、黙示録22:13)
言は神なり(ヨハネ1:1)
我は命のパンなり(ヨハネ6:35)
我は世の光なり(ヨハネ8:12)
我は復活なり命なり(ヨハネ11:25)
我は道なり真理なり命なり(ヨハネ14:6)
神は愛なり(Ⅰヨハネ4:16)
我は輝ける明けの明星なり(黙示録22:16)


神の御名を呼ぶとき


御名を呼ぶとき、神様はそこに現存されます。わたしたちの必要を満たし、わたしたちを救い、わたしたちの命となってくださいます。だから福音教会では御名を呼んで祈るのです。

わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
(出エジプト記 20:24)

福音教会の信仰

福音教会は、プロテスタント系のキリスト教会です。聖書を誤りなき神の言葉と信じる、福音主義の立場を基盤としています。